新歩道橋994回

2017年9月18日更新


 作詞家もず唱平は、今年歌書き50年、来年8月には80才の傘寿を迎える。
 「それはめでたい。何事かあればいつでも駆けつけるよ」
 と、川中美幸側近の岩佐進悟やプロモーター「デカナル」の小椋健史社長と約束した。今年3月、大阪・上六の居酒屋「久六」あたり。川中の新歌舞伎座公演に出ていた僕と2人は、もずと長い親交がある。
 その約束が半年後に果たせた。9月2日、滋賀・彦根のひこね市文化プラザ・グランドホールで「もず唱平50周年記念スペシャルコンサート・演歌祭り」が開かれてのこと。出演したのは川中美幸、鳥羽一郎、中村美律子、成世昌平、もずの新しい弟子高橋樺子で、司会がベテランの水谷ひろしと賑やかな顔ぶれだ。
 僕はサプライズ・ゲストで突然登場、花束を贈る役とされたが、それは無理...と変更した。歌手やそれぞれのマネジャーたちと親しいつき合いだから、会場入りと同時にバレる。案の定、もずの楽屋へ行く廊下で、
 「あら頭領、こんなところまで...」
 「もず先生、とてもお元気ですよ」
 などと、大勢の声に出迎えられてしまった。
 「花街の母」を中村美律子が歌う。金田たつえが地を這うような行商で、彼女ともずの代表作に育てた歌だ。その直後、あちこちから上京をすすめられたもずの相談を受ける。僕は反対し、大阪に止まって関西の雄となることをすすめた。牛尾となるよりは鶏頭となれのたとえもある。僕の発言は思いつきの域を出なかったが、鶏頭どころか牛の頭にまで成功、関西を制圧したのは、もずの才能と人柄、実行力である。そんな私的な出来事を、手柄話にするのは愚の骨頂だから、僕は長く口にしなかったが、後日、
 「しかし、あんたも大阪でよく頑張った」
 「何を言うとんの。そうしろと言うたのはあんたやで」
 なんてやりとりがあって、俄然、つき合いが濃くなった。あれからでももう44年か。
 「虫けらの唄」を鳥羽一郎が歌う。昔、バーブ佐竹が創唱した曲だ。
 〽死んだ親父は極道者で、逃げたお袋、酒づかり...
 と、どん底の暮らしで育ち、ぐれた男が主人公。十五の春に親にそむいてやさぐれた女と、心を添わせるさまがしみじみ描かれる。デビュー作の「釜ヶ崎人情」や「花街の母」もそうだが、もずは貧しい庶民の営みを素材に、詞の視線が暖かく優しい。本人に言わせれば「未組織労働者の哀歓」がテーマ。この日、成世昌平が藤岡琢也の歌をカバーした「悪友の唄」も、川中美幸が藤田まことの歌を引き継いだ「浪花人情~ラムネの玉やんの唄」もその路線。大阪人独特の諧謔が風味になったり隠し味で生きたり...。
 ペンネームもず唱平は、師である詩人喜志邦三の命名と聞く。もずは群れない野鳥で秋に人里近くで鋭く啼く。唱平は文字通り、平和を唱えよの教えらしい。彼の一番新しい弟子高橋樺子は「母さん生きて」を歌った。広島で原爆を被ばくしたもずの父親の見聞がモチーフ。母さん生きて! は、死んでいく娘の切なる訴えだったと言う。平和への祈りを託した高橋とマネジャーの保田ゆうこを、もずは実地で体感させるために、日米の激戦地テニアン島まで行かせている。
 ヒットソングも並んだ。川中の「宵待しぐれ」中村の「大阪情話~うちと一緒になれへんか」成世の「はぐれコキリコ」鳥羽が曲も書いた「一厘のブルース」など。文化プラザのホールはキャパが約400だが昼、夕2回公演がぎっしり満員。曲ごとに登場したもずは、歌が生まれた前後の話を、司会の水谷との味なやりとりで、ファンを喜ばせた。
 打ち上げは歌手、関係者が揃って、長浜ロイヤルホテルの宴会場。僕はもずの隣りの席で、彼ら夫妻が春に出かけたポルトガル旅行のあれこれを聞く。30人ほどのツアーにまぎれ込み、定年退職したサラリーマンを自称、気楽に過ごしたそうな。ビールを少々飲んで頬を染めた詩人はこの夜、記念行事の主として終始笑顔を絶やさなかった。
 もずの記念コンサートは、以後神戸、奈良、京都を断続的に回り、来年6月、地元の大阪・枚方公演でお開きになる。
週刊ミュージック・リポート