数え切れないくらい沢山おじぎをした。9月25日夜、帝国ホテルで開かれた日本作曲家協会の創立60周年記念パーティー。どっちを向いても知り合いの顔ばかりで「ごぶさたしておりまして...」から「おっ、元気?」まで、あいさつもいろんなタイプになる。こういうのも久しぶりで、近ごろは浦島太郎みたいな自分に、苦笑いする現場が多かった。年はとりたくないものだ。
会長が弦哲也、理事長が徳久広司、常務理事が岡千秋、聖川湧、水森英夫、幸耕平、四方章人、若草恵...と来ると、協会の新執行部はみんな友だちづき合い。全員がタキシードで威儀を正してズラリの〝お迎え〟で、
「テレ臭くてかなわないのよね、もう...」
と肩をすくめる岡に、
「馬子にも衣裳って奴だろ」
と、軽口で応じる気安さがある。大病快癒の前田俊明には「頭髪が生え揃ったなトシちゃん」ときわどいコメント、妙に緊張気味の田尾将実には「ごくろうさん」で、彼は事務局長のたたずまいを作っているのだ。
作詩家協会の会長としてあいさつした喜多條忠が、
「世代交代した感がある」
と言ったのに同感した。前会長の叶弦大とその執行部とは、それほどの年の差はないのだが、雰囲気は確かに変わった。先代には作家の専属制が崩壊した前後の匂いが残り、新幹部はフリーが当たり前になった世代。多くが弾き語り体験者で、みんなよく歌う。歌手や歌手志願がネオン街から、一流の歌書きにのし上がったあたりが共通点か。長いこと〝若手〟だった彼らも、実は還暦をとうに過ぎ、古稀に近づいてもいる。
昭和33年に発足した協会の会長職は、初代の古賀政男から服部良一、吉田正、船村徹、遠藤実、服部克久、叶弦大の順で引き継ぎ、弦哲也は八代め。戦後の昭和から平成の今日まで、流行歌で時代を表現して来た歴史が見える。それをふまえるから弦新会長のあいさつは「継承」と「挑戦」が骨子になる。言葉を選び、口調も真摯だったのは、背負ったものの重さや大きさを感じてのせいか、人柄がそうさせたのか。
体調が気づかわれている北島三郎が、思いがけなく長めのあいさつをした。歌い手を代表して、言いたいことが山ほどあり、それが堰を切った気配。歌書きに「名人芸」と「職人芸」があるという指摘が面白かった。ヒットづくりを狙って成就するのが「職人芸」で、瞬発力が特色。一方の「名人芸」は目先の成果にこだわらず、長く歌い継がれる作品を生む美学らしい。明らかに彼は、師匠の船村徹のひとと仕事を指していたのだが、大物はみな「職人芸」と「名人芸」の双方を兼ね備えていたろう。北島が危惧したのは、「名人芸」を発揮できた往時の歌謡界のゆとりと、「職人芸」ばかりが要求される昨今の窮状の差異ではなかったろうか。
昔々、古賀政男作品をレコーディングするコロムビアのスタジオは、緊張感がはりつめていた。その作品専用の伝道者になりかかった歌手大川栄策の〝親ばなれ〟を手伝ったこともある。日本アマチュア歌謡祭をスポーツニッポン新聞社で立ち上げた時は、服部良一から「まだスポニチに居た人なんだ。とうにフリーだとばかり思っていたけど」と真顔で言われて閉口した。吉田正は業界のパーティーであいさつが済むとすぐ、「さ、出かけようか」の一声で、僕を銀座のハシゴのお供にしてくれた。船村徹からは駆け出しの記者のころから身辺近くにいる自由を許され、やがて師弟の名乗りを認められる知遇を得た。
歴代の会長それぞれと、書ききれないほどのエピソードを持つ。大体が会長たちのそばに居るだけで、この世界での交友や親交の幅がどんどん広がっていった。いい時代の歌謡界で、僕はいつも宝の山の中にいたことになる。そう言えば...と船村の通夜、葬儀を手伝った時に数えたら、僕の船村歴は54年におよんでいた。それと協会の60周年とを考え合わせると、歌謡界にお世話になった年月の長さに、気が遠くなりそうになる。
そのうえに、協会新執行部諸氏とは、人によっては呼び捨て、あるいはチャンづけのつき合いである。これはもう足腰が衰えたとか、ボケたなどと言っている暇はない。作曲家、作詞家、アレンジャー、歌手、メーカーやプロダクションなど関係の方々に、いましばらくのお邪魔虫のお許しを乞い願うばかりだ。