新歩道橋1004回

2017年12月24日更新


 昔の話だが、瀬川瑛子が「命くれない」でブレークし、賞を総なめにした彼女が言ったものだ。
 「賞なんて、芸能人バレーボール大会で貰ったことしかないし、コメントを...と言われても、どう言っていいのか...」
 涙ぐむ彼女を見守りながら、僕は大笑いした。そこまでが長い道のりだったし、困惑している瀬川がいかにも彼女らしく好感が持てた。
 この年の瀬、似て非なる感慨を僕は抱えている。レコード大賞の功労賞が貰えることになってのこと。作曲家協会の事務局長、田尾将実から内々の電話をもらった。
 「あんたはヘソ曲がりだから、辞退するなんて言い出すと面倒なことになるし...」
 と言う。「功労賞? あれは亡くなった人に贈るもんだろ。俺はまだ元気だぞ」
 と、まぜ返したら
 「亡くなった方のは特別功労賞で、お元気な方は〝特別〟抜きです。長いことレコ大にかかわって来て、今さら何を言ってるのよ」
 と言われると、一言もなかった。それにしても、雑文屋がそんな光栄に浴するなんて、前例があったか?
 そこで瀬川の嬉し泣きが出て来た。81才になってこちらも、賞と名のつくものは初めてなのだ。高校時代はやんちゃ組の一人で教師の鼻つまみ。スポーツニッポン新聞のアルバイトのボーヤに拾われてからは、長く下働き、下支えの連続。28歳で取材記者に取り立てられたが、4年後に部次長、いわゆるデスクになり、35才で文化部の部長にされちまったから、スクープ賞などはみんな部下の仲間に回して来た。
 そう言えばレコ大だが、長く審査委員をやり、作曲家協会とTBSがもめたあたりから、審査委員長を7年やって、その後何年かは制定委員である。何だかずっと、賞は貰うよりあげる立場に居た。是非もない頼まれごとで八代亜紀をプロデュース「雨の慕情」でレコ大、その後五木ひろしの「おんなの絵本」でベストアルバム賞、坂本冬美の「夜桜お七」ほかにもかかわり、阿久悠の作詞賞のいくつかにも関係したが、結果的にみんな賞を獲得する人々の裏方だった。
 歌謡少年あがりの根っからの歌好きが、いい歌に出っくわすと大喜びで吹聴しまくり、それを生む歌書きの才能の凄さに心奪われ、名だたるプロデューサー、ディレクターに教えを乞い、美空ひばりほかに密着、ただただ好奇心を満たして右往左往した年月。振り返れば「功労」をほめてもらえるなど、何とも気恥ずかしい我まま勝手な半生である。そう言えば舟木一夫が55周年記念公演を、昼夜ぶっ通しの「忠臣蔵」で演舞場を湧かせている。彼のデビューと僕の歌社会取材スタートは昭和38年。年はかなり違うが、キャリアはいわば同期生。署名原稿を書き始めたのがデスク以降で、これは部下が持ってくる情報を週刊誌などに横流しする懸念を避けるためだった。昔あったミュージックラボで「歩道橋」という週1コラムを持って20年余、その後こちらで「新歩道橋」と改題、その連載が1000回を超え23年になる。今になってみれば、気が遠くなる作業だが、会った人、体験した出来事を思いのままに書いた体験談だから、さしたる手柄になろうはずもない。
 ま、あまり心当たりのない「功労賞」なのだが、ありがたく頂くことにしたら、お祝いの電報だの花だのに、恐縮しきりの日々になった。面白いのは友人たちの反応である。千賀泰洋にしろ古川健仁にしろ「おめでとう」を言ってすぐ眼をそらし、人見知りみたいな顔になった。そんなケースにぶつかるたびに、
 《何でテレるんだよ。テレなくちゃいけないのは俺の方だろ!》
 と文句を言いたくなったりした。
 それやこれやでバタバタの連続だが、作曲家協会の友人諸君やレコ大関係者、歌社会の皆々さまには「ありがとうございます」と、粛々と頭を下げるのが本心である。皆さまあっての今日の小生、お陰さまの山盛りゆえの今日なのだ。そのくせ新年のスケジュールを書けば、1月いっぱいけいこで2月8日から5日間、深川江戸資料館小劇場で、東宝現代劇75人の会公演「私んちの先に永代」でいい役を貰い、3月は大阪新歌舞伎座で川中美幸公演、4月は大衆演劇の門戸竜二一座と旅回り...の二刀流。
 「また芝居の話かよ。功労賞返せ!」
 などと、どうぞ叱らないで頂きたい。
週刊ミュージック・リポート