新歩道橋1013回

2018年4月8日更新


 思いもかけず大阪で、男たち3人の歌を聴いた。鳥羽一郎、鏡五郎、三門忠司の「ごんたの会ディナーショー」で、3月25日の日曜夜、場所はホテルグランヴィア大阪。もず唱平の作詞生活50周年企画だ。
 その前夜、僕はもずの接待を受けていた。この日、新歌舞伎座「川中美幸特別公演」に出演したのを見ていて、
 「ま、久しぶりに一杯やりましょか」
 と誘われてのこと。彼とは長いつき合いで、先方が上京すれば僕が接待する番。いわば交友なにわの陣だ。世間話の中で実は明晩嬉しいことに...と、そのイベントの件が出て来た。
 「そうか、そんなら俺、行くで。あしたは劇場が昼公演だけやからな」
 と、僕は舞台で難儀している怪しげな関西弁で応じた―。
 ショーは水谷ひろしの司会で、まず3人がもずのデビュー曲「釜ヶ崎人情」を歌うところから始まった。ドスの鳥羽、演技派の鏡、艶の三門と、三種の個性が芸にある男たちの共演、客席ははなからヤンヤヤンヤだ。それぞれのもず作品は、鳥羽が「メリケン波止場」三門が「河内人情」鏡が「うちの女房」の順。この会の命名者がもずで、「ごんた」は〝不逞のやから〟くらいの意か。鏡と三門が大阪、鳥羽は三重の出身で、いずれにしろ関西の3人組だ。
 開演前の控え室。もずがなぜか唇をとがらせてしゃべる。どうやらステージのトーク用の、滑舌の自主練と気づいてこちらはニヤニヤする。そのトークで水谷が「大阪在住のまま一家を成して...」と水を向けると、もずが「大阪に止まって頑張れ」と助言した向きがあって...と僕の名を出した。
 案の定、客席で飲んでいた僕が呼び出される。彼の出世作「花街の母」がヒットした昭和48年ごろのことだが、周囲から上京をすすめられたもずが相談に来た。その時僕は確かに大阪を制圧するように答えている。彼はそのころ110番舎という代理店もやり行政や日中友好関係にくい込んだりして、大阪に根を張っていたし、歌社会にはまだ作家の専属制が残っていたから、
 「東京へ出て来たって、20何番めかの作詞家にしかなれないぞ」
 と、乱暴なことを言った。
 その後もずは着々の仕事ぶりで、関西の歌社会を代表することになる。僕は当然、その件は封印した。妙な手柄話は性に合わないせいだが、後日、何かの対談で、
 「よく、大阪で頑張ったものだ」
 と言ったら、
 「あんたが残れと言ったんじゃないか!」
 と彼は色をなした。親交はそれ以来のことで、僕の方がちょっぴり年上なことも手伝って、彼を「もず!」と呼び捨てにしているが、この世界ではもう唯一の例になってしまった。ま、威張って見えるのは僕の方だが、人使いが荒いのはもずの方で、持ち込む仕事や相談で僕は彼にこき使われている。
 そんな話のサワリをちょこっとしゃべって、僕は席に戻り、また一杯...と焼酎をやる。舞台では「花街の母」を三門「虫けらの唄」を鳥羽「春という名の女」を鏡と、もずワールドを展開、それぞれのヒット曲を歌ったあと「兄弟仁義」を3人が、ワンコーラスずつ歌って締めた。これはもずではなく星野哲郎の作詞だが、星野に兄事していたもずは、晴れ晴れ笑顔で3人と並んだものだ。
 さて、新歌舞伎座だが、27日昼が13日間18公演の千秋楽。川中はそのフィナーレでこらえ切れずに泣いた。けいこ1週間本番2週間の強行スケジュールで、売り物にした「八百屋お七」の人形振りを仕上げた達成感があったろう。昨年10月1日に亡くなった母親久子さんを初代に見立て、二代目を演じた芝居「七変化! 美幸一座~母娘愛情物語」の虚実ないまぜた内容に、揺れた感慨もあったろう。僕はその身辺近くにいて、ステージでつい貰い泣きしかける幕切れになった。
 楽屋での楽しみは、主演赤井英和の謙虚なお人柄と穏やかな微笑との出会いがしら。もっとも彼の楽屋うちは「オッス」「オッス」のあいさつが絶えない体育会系で、賑やかそのものだ。その筋向かいの楽屋には、香を焚く人がいて、七代目瀬川菊之丞。僕は楽屋入りする都度、その部屋の前で深呼吸、芳熟な香りのおすそ分けを頂いた。60代のこのベテランが、芝居の他に口上も日舞も洋舞もと大忙し。黙々とこなす折目正しい仕事ぶりがこちらもお人柄で、大いに頭が下がった。
週刊ミュージック・リポート