快晴の箱根もいいものだった。静かな芦ノ湖の向こう側、山並みや富士山があって、どこからか小鳥の鳴き声も聞こえる。そんな眺めを見回しながら、しばし忘我の僕が与えられた部屋が凄かった。次の間の手前にまた次の間...の広さで、さてトイレは? 風呂場は? と、探検を強いられる間取り。箱根プリンスホテル別館の龍宮殿301号室「白加賀」は、時代劇の殿様用みたいだ。
そんな好遇を得たのは、4月22日、日本作詩家協会の研修旅行会にお呼ばれしてのこと。1時間ちょっとしゃべれという注文で、聞けばゲストは僕一人。70人前後の会員相手に〝研修〟の実をあげなければならない訳だが、特段緊張もしない。喜多條忠会長、久仁京介副会長に常務理事の石原信一、高畠じゅん子、建石一といった面々が、みな旧知の間柄だし、しゃべるネタはなんぼでもある。旅行の責任者建石がそわそわするのに、
「少し落ち着いたらどうよ」
なんて声をかけるくらい余裕をかましていた。 まず持ち出したのが「意表を衝け、アッと言わせろ」と「応分の読み応えを」という2点。何のことはないこれは、スポーツニッポン新聞社勤務時代に、兵隊記者諸君に強いた目標。読者獲得のための刺激的要素だが、アッと言わせるだけでは奇をてらうに止まるから、それなりの完成度が肝要。作詞家にも必要なポイントだろう。
「津軽には津軽の、錦江湾には錦江湾の風が吹くもんだよ」
というのは作曲家船村徹に教えられた現場第一主義。歌も記事も〝足〟で書くものだ。
「耳ざわりのいい言葉を並べて形を整えても、人の心は打たない。書き手の生き方考え方がにじんでないとな」
と言うのは作詞家星野哲郎の教えで、双方歌づくりの要諦だが、僕は雑文書きの戒めとして拳拳服膺、つまり肝に銘じていることのおすそ分けだ。
歌を書くという営為の意味合いを問えば、作詞家の阿久悠は、
「狂気の伝達かな」
と答えた。同じ問いになかにし礼は
「世の良風美俗に一服の毒を盛るのさ」
と応じた。阿久のすさまじいまでの情熱と、なかにしのシニカルな視線がまざまざの名言で、これもこの夜のおすそ分け。
「歌の入り口を考える子はいるけど、出口まで考える子はいないのよね。ま、入り口も考えないのは、素人だけどさ」
と歌唱の極意を語ったのは美空ひばりで、これも作詞に通じようが、当時
「入り口と出口の問には手ぐちが加わるでしょ。切り口も要るか」
と、僕はへらず口を叩いたものだ―。
しゃべりながら僕は考える。以上はいずれも、この道の名人達人の言葉である。仮にこんな要素を過不足なく満たしたら、その作者と作品は壇上に居並ぶ幹部をひっくり返らせ、天下を手中にするだろう。しかし、だからとても無理々々...と、後ずさりしていては何も始まらない。1項目でもいいからそれを目指して奮戦してもらいたいのが、この会に持ち込んだ僕の願いだった。玉石混淆石だくさんの作詞界の現状に、うんざりしている不満が軸だが、そうでもしなければ頭ひとつ抜け出すてだてはないよという助言のつもりもあった。せめて詞の入り口だけでもアッと言わせて欲しいのだ。
ま、こうぶち上げただけでは、研修会の実はあがるまいと思って、僕は自宅の電話番号を告げた。FAX兼用だから、これでどうだ! と思えるものが出来たら、送っておいでという呼び込み。送稿して10日後まで、こちらから返事がなかったら、
「箸にも棒にもひっかからないから、無視!」 の言い訳も付け加えたが、果たしてどうなることやら。
会は食事から二次会に流れた。改めて見回せば参会者の年齢層はかなり高めで平均60代後半か。女性陣が花やかで、雰囲気はとても穏やか。喜多條会長以下の幹部が、心を砕いたお仲間づくりが功を奏してのことと見てとれる。ただ物書きの野心がギラつく熟年や、向こう見ずの若者がまるでいないことが残念だが、演歌歌謡曲が中心の同好会と見立てれば、それはそれでやむを得まい。無名の作詞家を育てる熱意が、メーカーや制作プロに極めて貧しいことも反映していようか。
葉山から箱根まで、作詞家峰崎林二郎の車で送り迎えまで受けて、僕の殿さま酒盛り道中の1泊2日はこうして終わった。