新歩道橋1019回

2018年6月10日更新


 「歌謡ロック」という熟語が、妙にストンと胸に収まった。亡くなった歌手西城秀樹が創り上げた世界についての呼称だ。歌謡曲は藤山一郎、岡晴夫の昔から「声を整え」「節を工夫して」「歌う」ことで、歌手たちが魅力を競って来た。いわゆる〝ご三家〟の橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の歌唱もその延長線上に居たし〝新ご三家〟のうち野口五郎もそう。郷ひろみは「歌う」ことに激しい「踊り」を加えて新鮮だったが、西城の場合は「踊り」を「アクション」に激化、歌を「叫び」「ロックする」ことで、独特の世界を構築した。
 5月25日の通夜に4千人、翌26日の葬儀に1万人を越す人々が、青山葬儀所に集まった。この空前の出来事が、西城秀樹が歌謡界の開拓者の一人であり、第一人者だったことを証明したろうか。
 《しかし、道のりはけわしかったな》
 と、僕は往時を振り返る。尾崎紀世彦の「また逢う日まで」で幕があいた〝流行歌黄金の70年代〟は歌謡曲とポップスが並走、フォークとグループサウンズがブームになっていたが、歌唱法はまだ「歌う」ことの精緻さが評価されていた。その後のレコード大賞の受賞曲を順に追えば、ちあきなおみの「喝采」五木ひろしの「夜空」森進一の「襟裳岬」布施明の「シクラメンのかほり」都はるみの「北の宿から」沢田研二の「勝手にしやがれ」ピンク・レディの「UFO」...である。そんな流れの中で、対照的な西城の歌唱にファンは熱狂したが歌社会では、ともすれば「荒けずり」良く言って「ラフ」で「シャウトする」ロックスピリットが認められにくかった。水原弘の「黒い花びら」を皮切りに、終始斬新さが求められた当時のレコ大においてものことだ。
 昭和54年、黄金の時代終盤の1979年を、苦く思い出す。この年のレコ大はジュディ・オングの「魅せられて」と西城の「YOUNG MAN(YMCA)」が争った。審査員の一人だった僕に、ジュディ側の新栄プロ西川幸男社長(当時)と、西城が所属する芸映プロ青木伸樹社長(当時)から声がかかる。西川氏は村田英雄、北島三郎らを介して親交が深まり、青木氏は伴淳三郎時代から知遇を得ている人である。それだけに両氏とも票集めの実態を、事こまかに本音で語るに決まっていた。胸襟を開き切る両社長の話を聞いた上での審査となっても、僕は一票しか持っていない。結果はどちらかの意に添い、一方を裏切る仕儀になる。
 やむを得ず僕は両社長に会わないと決める。
 「会うことまで断るのか! そんなつき合いだったのか!」
 間に立った新栄の西川博専務、芸映の鈴木力専務の電話の声は、困惑に怒気さえ含んでいた。
 大晦日、僕は西城に一票を投じた。大賞はジュディ・オングが取った。票の内訳はすぐ伝わる業界である。当時中目黒に住んでいた僕の家に、両陣営のスタッフが乱入する。元日未明までの酒盛りである。
 「ありがとう。あんたもしんどかったろうけど、俺たちもしんどかったよ」
 彼らは口々にそう言いながら、したたかに酔った。しかし―。
 以後僕は新栄、芸映両プロダクションとの接触を謹慎する。年明けまで会わないとした態度は、両社長から見ればそれだけで〝男の信義〟に反した。パージを受けて当然なのだ。両者の肚のうちを打ち明けられた上で、一方を裏切ることは出来ないという苦渋の選択は、結局両者の怒りを買うことになった。僕はこの年を最後にレコ大の審査を降りる。後を託した百瀬晴男記者には、
 「ここまでの親交を許してくれる人が複数になったら、お前も降りて後輩にレコ大を渡せ」
 と口添えしたものだ。
 勘気が解けたのは西川社長が先になった。歌手藤圭子が新栄プロに移籍、育ての親の作詞家石坂まさをが彼女のデビュー前後からを託した小西と話をするように伝えたためだ。青木社長には僕がスポーツニッポン新聞社を卒業した2000年に、食事会に招かれた。
 「長いこと不義理をしてしまって...」
 とあいさつしたら、
 「いいんだよ、あのころはなあ...」
 と開口一番の応じ方で、20年近い心のつかえが、一気にほどけた心地がしたものだ。
 その西川、青木両会長はすでに亡い。折りに触れ、新栄育ち、芸映育ちを自称する僕は、西城の通夜、葬儀に接してタイムスリップした。西城の弔いは、彼のすさまじい闘病と生き方に感動したファンに囲まれて、もはやイベントの規模を示した。西城秀樹はもって瞑すべきだったろうか。
週刊ミュージック・リポート