新歩道橋1021回

2018年7月1日更新


 6月12日は亡くなった作曲家船村徹の86回目の誕生日。いつもなら彼が「歌供養」を催し、夭折した作詞家高野公男や戦死した実兄福田健一氏の霊を弔い、その年度に亡くなった歌社会のお仲間に合掌、あわせて陽の目を見なかった歌たちを供養した日だ。今年はその当日、鳥羽一郎が筆頭の内弟子5人の会の面々が集まると聞いて、栃木・日光へ出かけた。船村徹記念館に隣接する多目的ホールで、イベントのタイトルが「演歌巡礼・船村徹を歌い継ぐ」―。
 タクシーの運転手氏がボヤいた。話を聞いてすぐ飛んで行ったら、もうチケットは完売。
 「関係者でしょ? 何とかならないかねえ」
 と言われても、当方手の打ちようもない。
 「船村先生の歌はいいよ。ゲストに大月みやこが出るってな。あの人も鳥羽一郎も大好きでさ。やっぱり演歌はいい!」
 未練たっぷりの目つきを振り切って僕は会場へ入る。
 《そうだよな。〝演歌巡礼〟ってのは、船村先生がこういう人たちと会い、膝つめで歌うために、全国あちこちへ出かけたイベントだった》
 こちらはすっかり、内弟子5人の兄弟子になり切っている。
 村木弾が「別れの一本杉」と「夕笛」走裕介が「ご機嫌さんよ達者かね」と「なみだ船」天草二郎が「早く帰ってコ」と「宗谷岬」静太郎が「おんなの宿」と「新宿情話」鳥羽一郎が「雨の夜あなたは帰る」と「男の友情」を歌う。ゲストの大月みやこはもちろん「女の港」で、5人が合唱したのは「ダイナマイトが百五十屯」と「師匠(おやじ)」という具合。演奏は船村と常々一緒だった仲間たちバンドで、一時体調をこわしたギタリスト斉藤功も、少しやせたが元気だ。
 キャパ300のホールで昼、夕2回公演。近隣の善男善女でぎっしり満員の客席が、1曲ずつに揺れる。栃木なまりの掛け声もにぎやかで、歌い手それぞれに花束や祝儀袋が届けられた。客席中央あたりで僕は、ゆっくり船村ワールドを満喫する。昭和30年代にタイムスリップするうえ、出てくる曲目は全部、一緒に同じ時代を並走した。それぞれを創唱したスター歌手たちや、多くの作詞者とも顔なじみ。ことさらに作詞家星野哲郎の笑顔が脳裡に戻って来る。1曲ずつがその時代を象徴しており、幾時代も超えて歌い継がれる傑作も多い。作品の生命力の凄さだろうか。
 客席の同じ列に船村夫人の福田佳子さん、娘の渚子さん、息子蔦将包夫人のさゆりさんの顔が並ぶ。蔦は舞台で仲間たちバンドを指揮、ピアノを弾いていて、船村家が勢揃いだ。司会の東京太はいるには居るが、ショー全体を仕切っているのは鳥羽。側によって間(ま)が物を言う訥弁の能弁が、弟分たちの師匠ばなしをリードする。そのやりとりが面白くて客が喜ぶのだが、お陰で昼の部は30分も押した。
 船村門下はみんな、メロディーを軸に声と節を聞かせるタイプで、歌唱に小細工はない。それに村木は「率直」走は「のびのび」天草は「朴訥」静は「没入」と、歌との向き合い方と人柄がそれぞれ独特のキャラを作っている。鳥羽はあの名状し難い声と節とエネルギーで、歌まで「兄貴分」そのものの存在感が弟たちを圧した。
 《偉いもんだよな、鳥羽も...》
 と、僕が感じ入るのは、彼の二つの〝男気〟だ。その一つは、
 「声がかかれば、どこへでも行く」
 と「演歌巡礼」で師の心を継ぎ、その足跡をたどろうとする覚悟。荼毘に付した日、師の骨を噛み、後日遺骨を少し稚内の海に還した彼ならではのことだ。男気のもう一つは、この種のイベントを精力的にやって、弟分たちに歌う場を作っていることだろう。
 過日、震災や水害の九州で支援のコンサートを5人の会として開いたが、その都度寄金したのが何と500万円前後。5人は手弁当、枚方から会場費、制作費などの経費を差し引いた残り全額である。
 これにはびっくりし、大に喜んだのは、受け取った自治体の代表たちで、
 「有意義な形で役立てさせて頂きます」
 と、あいさつも自然、熱っぽくなった。
 「収益の一部をどうぞなんていうのは、かったるいでしょう」
 そう言い切る鳥羽の思いは、篤志家の師匠船村譲りなのだ。
週刊ミュージック・リポート