新歩道橋1025回

2018年8月19日更新


 連日、史上初の暑さが更新され熱中症で搬送された人数が放送される。お年寄りが亡くなるケースも。
 《その仲間入りだけはご免だな...》
 ぶつぶつ言いながら、僕は次の公演のけいこに出かける。酷暑とも炎暑とも言う多難な気候。この夏は僕の場合、7月23日から始まった。その前日の22日までは明治座の川中美幸公演に出ていて、劇場とごく近いホテルの往復だったから、ずっと冷房の中。それだけに強烈な陽差しには目がくらむ。延び延びになっていた歌社会のあれこれも重なっているうえ、僕は立派に〝お年寄り〟の一人だ。
 しかし、たむらかかしという青年は、なかなかの才能なのだ。本名は田村武也、作曲家協会会長でヒットメーカー弦哲也の息子だが、これが8月31日から3日間に5回、中目黒のキンケロ・シアターでやる路地裏ナキムシ楽団の公演「雨の日のともだち~死神さんはロンリーナイ!」の主宰者。プロデュース、作、演出から音楽、作曲、歌、はさみ込む映像づくり...と、何から何まで一手引き受けの大変な座長なのだ。
 脚本へのこだわり方が相当で、実は半年もかけて練り上げた台本が改訂版に次ぐ改訂版。僕はその第一稿を7月5日初日の明治座公演に持って行ったが、そのうち手直しが来るだろうと楽屋に置きっ放し。案の定留守中に削っては足し、足しては削りで、その都度ドラマの彫りが深くなっている。遅れて入ったけいこの7月30日、手にした第何稿かでは、大詰めががらりと変わっており、一読して僕は不覚にも泣いた。
 「泣かせる」のが、たむらの劇づくりの狙い目。だから9回め公演の今回も「第9泣き」と表記する。〝劇団公演〟ではなく〝楽団公演〟と名乗るのは、たむら率いる路地裏ナキムシ楽団のドラマチック・フォークの新曲が、板付きで芝居を先導し、フォローするせいで、若さに似ぬ昭和テイスト。これまでは下町人情劇が続いていた。ライブハウスから上落合の小劇場、今回で2度めのキンケロと、着々とキャパを大きくし、なぜかけいこが始まる前にチケット完売という人気ぶりでもある。
 それが今公演は突然〝死神ファンタジー〟に転じた。登場人物もルシファ、バロール、ベルフェゴール、マリア、ジョーカー、キラー、ゼット...と横文字名前が並ぶ。雨の日だけ働くという死神たちがかかわるのは、刺されたやくざや放火で死を選ぶ主婦とその家族、芝居のけいこ中に事故死する役者など生死の境の人間たちだ。その連中が残す後悔や無念を、何とか晴らそうとするのが、死神たちの好意というか善意というか―。
 オムニバス形式のそれぞれの景に、たむらの筆が加わる。四六時中考えていて、ああもしたい、こうもしたい...の夢がふくらむのだろう。エピソードにリアリティを持たせるためのセリフの加筆訂正、ドラマチックに盛り上げる(つまりは泣かせる)ためのシチュエーションの変更...。たむらは一本の上演台本で、一体何回の舞台を夢想し、こんな時代と社会の、何を考えようとしているのか?
 「最初からそう書けばいいじゃないか」
 「第一稿はかなり未完成だったと言うことか」
 などとは言わないで頂きたい。確かに彼は発展途上の劇作家ではあろうが、大仰に書けばこれが、彼の舞台の神様への献身と誠心誠意、決して途中で諦めない粘り強さとエネルギー、一公演への見果てぬ夢の連鎖なのだ。けいこ中もなお、手直しは続くだろう。もしかすると初日があけた後もまだ、彼なりの欲を示すかもしれない。
 楽団はたむらを筆頭に、ハマモトええじゃろ、暮らしべ四畳半、カト・ベック、アンドレ・マサシ、遠藤若大将と奇妙なステージネームの6名。役者は小島督弘、千年弘高、小森薫、上村剛史、中島由貴、橋本コーヘイ、押田健史、歌手の小沢あきこ、中島貴月、澤田樹奈、小早川真由、郡いずみ、大葉かやろう、Irohaに僕の15人。このうち上村と小早川と僕は、明治座川中美幸公演に出ていて、遅めのけいこ参加になった。
 この公演、レギュラーの僕が貰った役は「神さま」と呼ばれるホームレス。これがちょこちょこ出て来て、大詰めを「泣かせる」役で締めくくる大役である。
 《お代は見てのお帰りか》
 そううそぶきながら家を出る湘南葉山の海岸通りは、ほとんど裸の娘たちの闊歩と嬌声で大賑い。この際そのエネルギーも頂戴する気だが、正直眼のやり場には困っている。
週刊ミュージック・リポート