新歩道橋1027回

2018年9月4日更新


 樋口紀男氏の訃報は、8月20日夕、北区王子の北とぴあのけいこ場で聞いた。緊張気味の表情で小声で伝えてくれたのは、友人の田村武也。作曲家協会の弦哲也会長の息子だから、その事務所に寄って知ったのだろう。
 《そうか、やっぱりな...》
 ある程度、覚悟めいたものがあったにせよ、僕は胸を衝かれてしばし黙然とした。断続的にではあったが、ずいぶん長い闘病を続けていた人だった。そこへここのところの、酷暑である。健康な人間でも相当に応える気候。病いに冒されている人には、越えにくい夏だったかも知れない。
 けいこは今月末から来月にかけての路地裏ナキムシ楽団公演(中目黒キンケロ・シアター)の分。田村はその主宰者で「雨の日のともだち」の作・演出から音楽、映像の制作、劇中歌の作詞、作曲、演奏に歌...と、すべてを取り仕切る座長だ。
 「27日通夜で28日が葬儀だとか...」
 「俺、通夜の日はけいこ抜けるぞ」
 そんなやりとりを手短かにして、けいこに入る。
若者中心の一座で、樋口氏を知る者は他に居ない。さりげなく演出家の椅子に着いた田村をうかがいながら、僕のけいこは少々うわの空になる。すっかり入っているはずの科白が飛んだりして、共演者が「おや?」の表情。このところずい分多くの友人や知人を見送っている。それがいちいち身に応える。その人の元気なころの顔がちらつくのだ。
 「女の旅路」といういい歌があった。作詞家ちあき哲也のごく初期の作品で、六ツ見茂明という弾き語りの友人が曲を書いた。歌ったのは確かいとのりかずこという歌手で、40年以上も前、僕は六ツ見がやっていた外苑前のスナックで、やたらにこれを歌ったものだ。その出版権がバーニングパブリッシャーズにあった。誰かに歌って貰って、もう一度世に出したいと、樋口氏にかけ合った。
 「ああ、あの作品なら、今でも行けるかも知れないな」
 と、樋口氏は笑顔で応じて、歌手捜しまで何くれとなく話に乗ってくれた。しかし、その件はうまくまとまらず、結局は継続審議の形。そうこうするうちに、作詞、作曲家はともに亡くなっている。その悔いが、樋口氏の訃報でまた、生々しく甦る。穏やかな態度物腰で、口数も少なめ、我が強く言動ラフなお仲間に比べれば、紳士然とした樋口氏の、あの笑顔も一緒だ。
 深夜帰宅して、届いていたFAXを取り出す。その中の2枚に樋口氏のものがあった。バーニングパブリッシャーズ常務取締役、心不全、享年78、葬いの式場は桐ヶ谷斎場とある。70代はまだ若い、惜しい人を亡くした...と、そんな思いがまたよぎる。病気が小康状態になる都度、彼はよく仕事場に顔を出した。パーティーなどで顔を合わせると、
 「やあ...」「どうも...」
 のやりとりになる。決して深くはないが、心に残るつき合いの呼吸があった。
 長く音楽出版の仕事をして、人づきあいは広く多岐にわたった人徳の人だ。後日その葬送は、橋山厚志葬儀委員長をはじめ、ごく親しい人々で固める「友人葬」になると聞いた。その顔ぶれより僕は少々年嵩の部類に入る。親しく酒の仲などにならなかったのは、僕がスポーツニッポン新聞社の晩年、現場を後輩記者たちに任せたせいか、退社後は役者三昧の暮らしに入ったせいか...。
 ここ20数年、僕が見送った歌社会の人々は多い。親交から葬いの手伝いをしたケースも相当な数にのぼる。その都度僕は逝った人々の心残りや無念を受け止め、微力ながらその思いを引き継いで行こうと、ひそかに心に決めている。歌手の美空ひばり、作詞家の中山大三郎、星野哲郎、阿久悠、吉岡治、ちあき哲也、作曲家の??田正、三木たかし、船村徹などの順で、教えを受けた人ばかりだから、荷としてはかなり重い。しかし折りに触れていつも
 《もし、あの人が今、元気だったら...》
 と思い返し、事に当たるよすがとすることが、先人への崇敬であり、心づくしでもあろうかと思っている。
 このコラムが読者諸兄姉の眼に触れる8月の最終週、週のはじめに樋口氏の通夜葬儀は済み、週末からはナキムシ楽団公演が始まっている。その芝居は愛すべき死神たちが、亡くなる人々の後悔や心残りを取り除いていく内容である。偶然にしろ妙な符合を感じて、胸がうずく。
週刊ミュージック・リポート