新歩道橋1038回

2018年12月22日更新


 エレベーターを降りたら眼の前に、坂本九が立って居たので驚いた。まっ赤なジャケットを着て、おなじみの人なつっこい笑顔だ。等身大のパネルである。集まる人々が、彼をはさんで記念写真を撮りはじめる。その人数が次第に増え雑踏に近いにぎわいになるが、何だか穏やかないい雰囲気だ。12月3日夜の銀座ヤマハホール、知り合いを捜したが見当たらないから、僕はロビーの片隅のカウンターで白ワインなどをちびり、ちびり。そんな光景を見守ることになる。
 この夜、このホールで開かれたのは、「坂本九ファミリー ママエセフィーユ」という名の恒例のクリスマス・コンサート。出演者は坂本九夫人の柏木由紀子、娘の大島花子と舞坂ゆき子の3人で、2006年に始めた催しだから、もう13回めになるのか。今年は坂本の生誕77年を記念したスペシャル・バージョンという触れこみだが、どんな内容になるのか?
 《それにしても、彼女らは偉いもんだ。彼も本望だろうな...》
 坂本があの日航機事故で亡くなったのが1985年だから、もう33年になる。突然の死の悲嘆からやがて立ち直り、彼の魅力や実績を顕彰しながら、3人の女家族は、彼が生涯の仕事とした音楽で、人々を楽しませている。その追慕の思いの深さとその後の彼女らの自立した姿が、人々の心を動かすのだろう。年に一度だがそのために、毎回家族が趣向を凝らす手づくりな内容、つつましげに、決して大きくはない規模であることなどが、好感度につながるのか、チケットは毎回、発売と同時に完売するそうな。
 僕が招かれた席は1階G列10番、中央を横断する通路を前にして、足ものびのびと至極楽ちんな場所。横を見れば坂本がダニー飯田とパラダイスキングに所属した時代から、ヒット曲を制作したベテランディレクター草野浩二が居り、僕の右隣りには、その後の坂本の制作にかかわり後にファンハウスというレコード会社を興した新田和長が居る。彼は今日も坂本一家と親交がある相談相手の一人。左側の席へは柏木と親しい歌手の竹内まりやが飛び込んで来た。
 スペシャルバージョンの第1部は「ザ・グレイテストショーマン坂本九」で、さまざまな映像で彼が登場した。プレスリーを歌う彼、カントリーウエスタンを歌う彼、テレビでオリジナルヒット曲を歌う彼、舞台の「雲の上団五郎一座」に出演中の彼...。カラーにまじってモノクロ版も出てくるが、多くがテレビ番組の抜すいで、全盛期のテレビがエンターティナーとしての彼を育て、彼を必要としたことが判る。NHKの「夢で逢いましょう」に代表されようが、彼はテレビの申し子だった。ロカビリー・ブームの中から登用された才能だが、当時、若いエネルギーが炸裂したこのジャンルの人気者は、多くが異端の存在と目されていた。オトナ社会が彼らを〝悪い子〟と決めつけたとすれば、坂は穏健で陽気でみんなから愛される〝いい子〟の代表になっていはしなかったか?
 第2部は「ザ・グレイテストヒッツ~坂本九」で「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」「幸せなら手をたたこう」など、おなじみの作品を夫人と娘たちがこもごもに歌った。曲にあわせてファンが手をたたいたり、歌ったりと呼応して、ステージと客席が一体になる場面も。彼女たちの歌声越しに甦るのは坂本の笑顔と独特な魅力だ。
 「大きな存在を失ったんですよね」
 隣席の新田がしみじみした声音で囁いた。
 「そうだねえ」
 と、僕は同調しながら、坂本を支えた作家たちの顔も思い返す。作詞家の永六輔、作曲家の中村八大やいずみたくらで、彼らが坂本に強力な「作品力」を提供していた。歌詞の第一行がタイトルと同じで、全編が話し言葉という永の仕事は、新鮮で独特のロマンチシズムを持つ。それに応じて曲を書いた中村やいずみの仕事ともども、新しい日本のポップスの行く方を指し示していたろう。前衛と言えば言えたが、それが多くの人々に愛され、歌い継がれる平易な親しみやすさを持っていたことが得難い。
 僕がスポーツニッポン新聞の内勤記者から音楽を取材する担当に異動したのは昭和38年夏。28才の僕より5才年下の坂本は、すでにスターだった。彼の関係者もファンも、一様に親しげに彼を「九ちゃん」と呼んでいたが、幼いころ軍国少年だった僕には、人を愛称で呼ぶ習慣などない。インタビューでいつも「坂本さん」と呼ぶ僕に、彼はその都度怪訝な顔をしたことを今でも覚えている。
週刊ミュージック・リポート