新歩道橋1047回

2019年4月6日更新


 内田裕也はいつも「怒って」いたし「いらだって」いた。自分の考えにそぐわない事柄が多過ぎるし、それをアピールしても届かない無念がある。言動が粗野だから、主張ぶりは時に〝事件〟となって、世間の耳目をにぎわしてしまう。
 《そうじゃねぇんだよ、このタコ!》
 という鬱憤が、どうしても積み重なっていく。そういう一念と、蛮行、愚行に走ることの乖離を意識しながら、彼は彼流を押し通した。胸中にうずく含羞の美学など棚にあげたままだ。
 1981年、樹木希林との離婚届けの件もそうだった。夜遅く会いたいという電話を受ける。僕はその日のスポニチ編集の責任者で、手が離せないと言っても、きかない。仕方なしに、勤め先近くの東京プリンスホテルのバーで落ち合った。
 「離婚しました」
 が彼の第一声。夫人が同意したとは思えないから問いただすと、二人分の印鑑を勝手に押している。誰がどう考えても、そんな届けは無効だから、取り下げるように話したが、
 「渋谷区役所は受理した。決定だ」
 と強弁する。その足でハワイへ発つと言うので、僕は社の車で成田空港まで同行、説得を続けたが、「うん」とは言わぬままだ。彼の言う通り、事実は事実だからありのままに記事にした。
 案の定、大騒ぎになる。帰国後の彼と話して、友人の弁護士を紹介した。間違いなく敗訴になるにせよ、本人がマスコミ勢にもみくちゃにされ、またあらぬことを口走らぬように...のおもんばかりだ。
 10年後の91年、都知事選に立候補する件は、赤坂プリンスホテルの寿司屋で報告を受けた。政治への関心と、候補者選定の舞台裏への義憤が熱く語られる。こちらには止める理由もないから、翌日の立候補届け出に、仲間の記者とカメラマンを同行させ、取材した。選挙運動の期間中も破天荒な遊説に密着する。落選はしたが彼は、5万票超の支持を得た。
 長いつき合いがあった。ロカビリー・ブームからグループサウンズ・ブームまで、僕はジャズ喫茶や日劇のウエスタン・カーニバルなどを徹底取材した。異形の彼らの凄まじいエネルギーと熱狂するファンの姿を、世間は不良集団と指弾する。しかしそれは明らかに、新しい音楽や流行の波頭だったから、スポニチは支持し、僕はたくさんの記事を書いた。
 もともと僕は密着型の記者である。歌手の美空ひばり、作曲の??田正、船村徹、作詞の星野哲郎、阿久悠、吉岡治らがそうだが、相手が許してくれればとことんその懐に深入りして「ひとと仕事」の実情をきわめようとした。「密着」と「癒着」は違うのだ。内田の場合もそうなり、しばしば一緒に酒を飲む間柄になった。
 ところが相手は、ロックンロールと生き方考え方を表裏一体の魂と念じる男である。ロックがビジネス化することにも異議を唱え、憤懣やる方ないから、荒れた酒になることが多い。ゴールデン街ではいつも、彼をカウンターの一番奥に据え、僕はその手前に陣取った。居合わせた客の発言に腹を立ててケンカになると、僕は止め役である。口惜しがって彼は僕の腕を噛む。明け方、僕の右腕には彼の噛み跡が二つ三つ残ったものだ。
 あとになれば笑い話の、そんなエピソードは、いくつもある。しかし、それを笑っては済ませないほど、その時々彼はすこぶる真剣でなりふりかまわない。短絡的で衝動的に行動する彼との酒は、いつも危険物持ち込みみたいな緊張を伴った。右側二の腕に残った彼の噛み跡は、当時の僕の名誉の勲章だったかも知れない。
 駆け出し記者には、とうてい対応できる相手ではない。そのために僕は、スポニチに、〝裕也番〟の担当記者を置いた。晩年まで長く密着したのは佐藤雅昭で、文化社会部長もやったベテランである。2013年、彼の父親が亡くなった通夜に、内田が突然姿を現わした。何と葬儀式場は北海道の釧路である。こわもての内田の情愛の深さとおもんばかり、筋の通し方に僕は感じ入ったものだ。
 内田裕也は己の信ずるままに戦い「むきだしの人生」79年を貫いて逝った。胸中の核としてあったのは、樹木希林夫人の言う「ひとかけらの純」だとすれば、もって瞑すべき生涯だったろう。
 僕はこの欄の今年第1回から全部で、亡くなった人のことばかりを書いている。時代の変わりめに立ち会っている感慨がひとしおである。
週刊ミュージック・リポート