新歩道橋1069回

2019年11月24日更新


 心に沁みる〝いい弔辞〟を二つ聴いた。11月11日、東京・青山葬儀所で営まれたJCM 茂木高一名誉会長のお別れの会。遺影の前に立ったのは作曲家の弦哲也と作詞家の喜多條忠で、それぞれ作曲家協会と作詩家協会の、会長としての立場だ。
 最初の弦は、茂木氏を「関守」に例えた。これはいかめしいタイプの役人を連想するが、茂木氏はいつも柔和で、最高の笑顔で弦らを迎えたと言う。ご存知の向きも多かろうが、JCMはセントラル・ミュージックという社名の略称。文化放送の系列で、音楽出版事業を主とする。ひらたく言えばラジオ放送を背景に、歌手の育成、プロモーションや楽曲の制作などに係わり、歌謡界に貢献するのが役割。茂木氏は昭和32年に文化放送に入社、10年後のJCM創設にかかわり、以後常務、専務、社長、会長を歴任、平成25年に名誉会長になり、今年9月14日、85才で亡くなるまで、その任を全うした。
 その間茂木氏は「ダイナミックレーダー・歌謡曲で行こう」や深夜番組の「走れ歌謡曲」などを手掛け、新人歌手の登竜門「新宿音楽祭」を創設するなど、活発な活動で数多くのスター歌手とヒット曲を世に送り出した。歌謡界切っての実力者なら〝やり手〟の老獪さも秘めていようが、JCMを訪れる関係者はまず茂木氏にあいさつをした。その様子を弦は「関守」に例えたのだろう。出会った人々には独特の笑顔と飾らぬ会話、親身の対応で接した。弦は茂木氏のそんな実績と人望を語り、簡潔で心あたたまる弔辞とした。
 二人めの喜多條は、茂木氏を陰で「ムーミン・パパ」と呼びならわしていたと、より実感的な話をする。売れない放送作家時代、文化放送に通いつめ、局内の宿泊部屋に「棲息していた」と言う彼は、酒食まで氏に依存する。顔を合わせる都度聞かれたのは「大丈夫?」「喰えてる?」「ほんと?」の三つで、それは喜多條が功なり名遂げて以後も変わらなかったそうな。
 この日、青山葬儀所は歌謡界の有力者や歌手とその関係者などで会場は満たされ、外には焼香を待つ人の列が出来た。そんな大勢が、作曲家と作詞家の弔辞にしみじみと聴き入った。二人とも不遇の時代を持ついわば苦労人で、茂木氏の人柄を語る言葉の端々に、彼ら自身の人柄もにじむ〝情の弔い〟になったものだ。
 その3日前の8日昼、僕は北品川の東海寺で営まれた島倉千代子の七回忌法要に出向いた。ごく内々...の催しで、関係者がひと座敷分。石川さゆり、小林幸子、藤あや子、山崎ハコに南こうせつ、鳥羽一郎らと親しいあいさつを交わす。驚いたのは寺と墓地を囲んだ島倉ファンの群れで、その数何と200。貸切りバスまで動員されて、全国から集まったと聞く。ところが島倉の実弟も亡くなっており、親族の姿はゼロ―。
 故人は山ほどの不幸を生きた人である。結婚と離婚、背負わされた巨額の負債が何度か。結局それで亡くなるのだが、二度のがんの発病...。時に声まで失って、その都度彼女は悲嘆に暮れ、やがて気丈に立ち直る。ヒット曲のタイトルそのままに「人生いろいろ」を笑顔で耐えた半生に見えた。
 涙が芸の道連れとは言うものの...と、親交があった僕は、しばしば暗澹とした。美空ひばりをはじめ多くの女性歌手は、女の幸せも家庭の夢も捨てて、ひたすら庶民の娯楽に献身する。演歌、歌謡曲の主人公の辛い境遇をなぞる気配すら濃い。哀愁民族と僕が思う日本人の心を捉えるのは、身を捨ててまで奉仕して、悲恋を歌う彼女らの仕事だったのか?
 法要を取り仕切ったのは、阿部三代松社長を筆頭にした日本コロムビアの人々である。この会社が身よりのない島倉の遺族代わり。彼女の遺品やもろもろの権利は、東海寺に寄進されており、陰で尽力したバーニングプロダクション周防郁雄社長も顔を見せていた。何かと厄介なことが残るこの世界のこととしても、これは極めて稀なケースだ。
 墓参するファンの群れと話しているうちに、
 「市川由紀乃の母です」
 と名乗る婦人にまで出っくわした。
 茂木名誉会長の弔いを囲んだのは家族と関係者の情、島倉千代子の霊を慰めたのは支持者たちの情だった。東海寺の参会者の中に美空ひばりの息子加藤和也氏の顔があって、僕は昔、島倉を喜ばせた語呂合わせを思いだした。
 「美空ひばりは最初からおとな、島倉千代子は最後まで少女」
週刊ミュージック・リポート