新歩道橋1082回

2020年7月4日更新


 テーブルの上を透明のアクリル板が横切っている。その向こう側にいる女性は、フェース・シールドにマスク、おまけに眼鏡までかけているから、誰なのか判然としない。と言っても、僕は居酒屋に居るわけではない。僕もマスクをつけたままだし、向き合う女性の右側に居る青年もマスクが大きめである。新型ウイルスの非常事態宣言は解除されたが、東京の感染者数は減る気配もない或る日の東京・神泉のUSENスタジオ。実は僕がレギュラーでしゃべっている昭和チャンネル「小西良太郎の歌謡曲だよ、人生は!」でのことで、完全武装!?の女性は歌手のチェウニ、隣りの青年はゲストの歌手エドアルドだ。
 ふだんは鼻にかかりる僕のモゴモゴ声が、マスク越しなのが気になって、芝居用の張り声を使った。しかし、どうしても響きが少し派手めになるから、エドアルドの身の上話にはなじまないかな...と気になりながらの録音だ。エドアルドはブラジル・サンパウロ出身。ブラジル人のジョセッファさんという女性が母親だが、生まれて2日後には日系二世のナツエさんの養子に出された。何とまあ数奇な生い立ち...と驚くが、しかし、
 「生んでも育てられない女性と、子宝に恵まれない女性の間で、事前に話し合いがすんでいて、こういうこと、あっちではよくある話なんです」
 と、本人は屈託がなく声も明るい。結局彼はナツエさんの母になついたおばあちゃん子で、祖母は日本人だった。物心ついたころにしびれたのが日本の演歌で、これはナツエさんの兄の影響だと言う。僕がエドアルドに初めて会ったのは19年前の平成13年。NAK(日本アマチュア歌謡連盟)の全国大会に、ブラジル代表としてやって来た彼が、細川たかしの「桜の花の散るごとく」を歌ってグランプリを受賞した。この大会は100人前後の予選通過者がノドを競う、相当にレベルの高いイベントだが、エドアルドはすっきり率直な歌い方と、得難い声味が際立った。審査委員長を務める僕が、総評でそれをほめたら、本人は日本でプロになりたいと言い出す。僕は「相撲部屋にでも入る気か!」と、ジョークを返したが、当時18才の彼は、150キロを超える巨体だった。
 それから8年後、26才のエドアルドは、驚くべきことに80キロ以上も減量して日本へやって来た。大の男一人分超を削っている。
 「胃と腸を手術でちぢめてつなぎ直してですね、まあ、栄養失調になってですね、やせました」
 これまたあっけらかんと話す彼に、僕のアシスタント役のチェウニは目が点になる。ダイエットなんて発想は吹っ飛ぶ捨て身の覚悟で、歌謡界にさしたる当てもないままの来日。もう一つ驚くべきことに、千葉の弁当屋で働きはじめた彼を、義母のナツエさんが追いかけて来日、息子の野望の後押しをするのだ。エドアルドはその後、テレビ埼玉のカラオケ大会でグランドチャンピオンになるなど、手がかり足がかりを捜し、作曲家あらい玉英に認められて師事、平成27年に32才でデビューした。たきのえいじ作詞、あらい玉英作曲の第1作は「母きずな」で、彼の生い立ちが作品に影を作っていた。
 エドアルドの歌手生活は今年で5年になる。最新作は「しぐれ雪」(坂口照幸作詞、宮下健治作曲)で5枚めのシングル。僕が悪ノリしているのは3作めの「竜の海」で、石原信一の詞に岡千秋の曲。越中の漁師歌だが、エドアルドの歌唱は日本人歌手のそれとはフィーリングが一味違って、独得の覇気があった。「心凍らせて」「さざんかの宿」「愛燦燦」などのカバーアルバムが1枚あるが《ほほう...》と思わされるのは「岸壁の母」や「瞼の母」で、やっぱり母もの。プロになって2度、サンパウロで凱旋コンサートをしているが、その時に生みの母ジョセッファさんと育ての母ナツエさんが、手を取り合って嬉し泣きに泣いたと言う。
 少年時代から、彼の歌手志願の背中を押したサンパウロでの歌の師匠・北川彰久氏が、今年1月に亡くなった。毎年5月にNAKのブラジル代表を連れて来日した彼とは僕も昵懇だったから、その葬儀には弔辞を届けた。ブラジルの音楽界と日系社会に功績が大きく、カラオケを通じて日本とブラジルの国際交流にも大きく貢献した人だった。
 びっくるするような話ばかりにつき合ったチェウニは、異国の日本で頑張る先輩歌手だが、エドアルドの日本語の巧みさに、
 「敬語までちゃんとしてる」
 と、しきりに感心していた。
週刊ミュージック・リポート